三国の漁師たちの努力で商品化した、「ふくい甘えび」

九頭竜川の対岸から、三国港を臨む。港を作ったオランダ人技師、G.A.エッセルが明治時代に作ったモダンな小学校(移築)がランドマーク。

廻船業から水産の街へ―。三国湊の変遷

JRあわら温泉駅から車で20分。のどかな街なみを走ってくと福井県のなかでも甘えびの水揚げNo.1を誇る漁港、坂井市の三国港に到着する。今日は漁がないのだろう、九頭竜川に面した堤防には船が何隻か停泊していた。ここは海ではなく川沿いに船を泊める河川港=湊だ。海沿いに走り、山側に曲がると、そこには時が止まったような風情のある街並みが現れた。

実は三国港がある三国の街は“三国湊”と呼ばれ、778年に編纂された『続日本記』にもその名が登場するほど歴史は深い。室町時代の『廻船式目』には「三津七湊」の一つにも謳われ舟運で栄えていた。広い九頭竜川の河口付近には港が設けられ、上流にある竹田川、足羽川を使って越前一帯の荷物を集積し、この三国湊から日本海に出て他地域へ輸送していた。

写真上/【「越前三国湊風景之図」(慶応年間)】当時の北前船で賑わう三国湊の様子がうかがえる。写真下/昔の豪商の家を使った「三国湊町家館」。

江戸時代になると、大阪と北海道の間を日本海廻りでつなぐ「北前船」が登場。ここ、三国湊でもより廻船業に力を入れる人々が増え、港は北前船の寄港地として大いに栄えた。幕末から明治時代初期ごろまで「北前船」の繁栄とともに栄華を極めていく。当時はこの地に40軒もの置屋が並び、花街としても賑わったという。慶応元年(1865)の「三国鑑」によれば、当時の戸数1581軒のなかで、一番多い職業は船大工の70軒、続いて大工40軒、鍛治40軒と続く。魚を売って暮らしていたものは2軒のみだ。三国港が商港として栄えていたことがわかる。当時の華やかな空気は、今も残る北前船で一財を成した森田家が興した銀行の建物などからも感じることができる。

しかし、この海運業、明治時代に鉄道が開通したことがきっかけで衰退の一途を辿る。商港としての役割を終えることになったのだ。そこから漁港への転換がはかられ、大正時代に動力漁船による底曳き漁が導入されると、一気に水産の街へと変貌をとげていく。 

漁の主力“越前がに”に続く福井県が誇る“甘えび”漁

「三国港機船底曳網漁業協同組合」代表理事組合長をつとめる濱出征勝さんと、息子の栄一郎さん。

廻船業から水産業へ変貌を遂げたここ三国は、毎年皇室にも献上される越前がにを始め、良質な魚があがる漁港として知られている。水揚げされる主な魚種は、漁獲金額高ではずわいがに、甘えび、赤がれいの順だ。

実はこの甘えび、漁の歴史がとても浅いことをご存知だろうか。そのルーツはこの福井・三国にあると「三国港機船底曳網漁業協同組合」代表理事組合長をつとめる濱出征勝さんは話す。

「蟹の漁をするとたまに網にかかってくるから、昔から漁師は甘えびがいるということは知っていました。けれど、水深500mにいるからピンポイントを狙って獲る技術が昔はなかったんだね。水揚げできるようになったのは昭和33年ごろだと聞いています。蟹が不漁だったから捕りにいったそうです」あくまでも、“この言い伝えが正しいかどうかはわからない”という濱出さんの話ではあるが、漁業として甘えびが流通するようになったのは昭和30年前後と推測される。

実際福井県の水産課に問い合わせてみると、昭和32年12月18日の新聞の「カニ漁不漁」という記事の中に、“前年のカニの不漁を受けて三国の漁業者が甘えび漁を開始”という記載がされていた。

比較的新しい時期から流通し始めた理由は、甘えびは身がやわらかく潰れやすい特徴もあるだろう。鮮度も落ちやすいため、その品質を保ちながら運搬し流通させるのが技術的に難しかったことがうかがえる。

甘えびの殻をむくと、半透明な柔らかな身が現れる。

甘えびは、“食べた時に甘みを感じるから”甘えびという通称がついているが、和名はホッコクアカエビという。

その生態は実にユニーク。生まれてから5歳まではすべての甘えびがオスで、6歳からすべてがメスに性転換する。そこから隔年で卵を持ち、1年間腹に持った後3-4月に産卵。翌年は卵を持たずに過ごし、また次の年に卵を持つ。そうして3回程度産卵を終えたら11年の一生を終えるのだ。

甘えびの特徴は、なんといっても殻を剥いて、半透明の身をちゅるんと食べると口に広がる独特の甘み。けれど、このおいしさには実は時間が関係していると濱出さんが教えてくれた。

「甘えびはとろっとして甘くておいしいでしょう? 一番おいしいのは、水揚げしてから24時間~48時間の間です。捕れたばかりは皮も剥けないし、身が硬くておいしくない。けれど、鮮度が急激に落ちていくから、48時間以降経つと急に臭くなったり身が溶けてしまう。この一番おいしいポイントで消費者に届くように考えているのが福井県の甘えびなんですよ」

資源を守りながら、未来に繋がる福井ブランドへ

網の手入れをする「栄吉丸」船長・濱出栄一郎さん。「かつては35隻あった底曳き船も今は9隻に。漁師は厳しい仕事です」と語る。

福井で揚がる甘えびを“食べごろ”でお届けする。「ふくい甘えび」はどんな工夫をしてそのおいしさを作っているのだろうか。

その認証基準は3つ。1つはサイズ。全部で5種類の大きさがある中で、子持ち・大・中サイズのものであること。2つめは、状態がよい5月~1月に漁獲されたもの。3つめは、漁獲からセリまでが24時間以内のものであること。

北海道や石川県など、甘えびの漁獲量が多い県はほかにもあるが、福井県・三国の甘えびは“夕ゼリ”という独特のセリの形態と、選別のこまやかさが、特に鮮度がよく状態のいい甘えびとして他と一線を画する商品になるという。

船上で選別された甘えび

技術的な面での工夫はあるのだろうか? 港で作業する三国港にある9隻の底引き船の一つ「栄吉丸」船長・濱出栄一郎さんに伺ってみると、漁のやり方を教えてくれた。

「甘えびは水深500mのところに群れでいるので、底曳網ですが“マエダレ網”という網を使って漁をします。海底から浮かせて甘えびの生息域で網を引くことで甘えび以外の魚が入らないんですね。ゆっくりと時間をかけて引くことで、身が柔らかい甘えびの身を傷つけないように漁をします。そして獲ったら、甘えびのいる海水温度と同じ2℃に設定したプールに揚げてよりストレスがかからないような状態で運びます」。できるだけ、優しく、優しく。漁のやり方から、食べる人がよりおいしく食べられるようにと配慮されていることがわかる。

夕方から夜にかけて、夕ゼリに間に合うように続々と底曳き船が帰ってくる。

さらに、漁の仕方には、海の資源を守るための配慮もされている。実は1980年代に、甘えびは乱獲のため急に獲れなくなってしまった時期があるのだ。

「乱獲を防ぐために、今は甘えびを取るときは一回の漁で2回の底曳きを推奨とすることを組合で決めています。漁獲高が少ないときは3回までOK。うちは一回500kgくらいを目指して漁をしていいます。」(濱出さん)

夜中12時に起きて、1時には出港、漁場に午前5時くらいに到着して第一回目の漁をして、お昼くらいに二回目の漁。16時くらいには漁場を出て19時過ぎに港に帰ってきてすぐに夕ゼリの準備をするという。選別は船の上で。福井県は5種類と選別基準をほかの県よりも細かくわけているから大変だ。さらに甘えびは大変デリケートで、素手で触ると手の温度で“甘えびが火傷をする”ので、ゴム手袋をしてできるだけ触れないようにして選別をするのだという。

市場で行われる夕ゼリの様子

そうして丁寧に箱詰めされた甘えびが夕ゼリに並ぶのは、19時半をまわったころ。つまり、漁をしてから24時間どころか、12時間ちょっとでセリにかかることになる。ここから、夜トラックなどにのって朝に金沢や大阪に到着し、ちょうど食べごろの24時間~48時間の間に消費者の元に届くというわけだ。この漁場が近く、鮮度のいいものをすぐに流通に乗せられるのは三国の強みだろう。

揚がったばかりの甘えびは、ツヤツヤと輝いている。高値がつくのは、卵を抱いている大きなメスだそう。ひと昔前にくらべ、お刺身はもちろん、お寿司や、イタリアン、フレンチなどの洋食でも使われるようになり、需要も高まってきた。「ふくい甘えび」への期待は地元でも大きい。

船で選別し、箱いっぱいにつめられた甘えび。(写真提供:DMO さかい)

甘えびを、もっと福井県の誇れるブランドに―。実はこの動きは「三国港機船底曳網漁業協同組合」から長年福井県に働きかけていたことでもあった。その背景には、越前がにの不漁続きという漁師の死活問題があった。

「越前がには乱獲でどんどん漁獲高が減ってきています。このままでは未来の漁師たちに残せる海の資源がなくなってしまう。甘えびは通年安定的に獲れている海産物。その恵みに感謝し、三国の漁師が手をかけ丁寧に詰めた高品質なものに、きちんとした値段をつけられないかと考えました。甘えびは福井の海が育む宝です。獲りすぎないように漁獲高をコントロールしながら海と共存しなければいけません」漁協組合長の濱出征勝さんは、目の前の海を見ながら語ってくれた。

廻船業から水産業へ―。歴史のページを重ねるごとに、たくましく生き抜いてきた三国の人々。海と生き、海に生かされてきた人々だからこそ考える漁と海の未来。甘くてとろける「ふくい甘えび」には、そんな明るい漁の未来への思いも乗せられている。

撮影/志賀真人  取材・文/山路美佐

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