サミットでG7の首相陣をうならせた
【志摩観光ホテル】の総料理長・樋口宏江シェフ

壮大な英虞湾の夕日

「陽が傾き、潮が満ちはじめると、志摩半島の英虞湾に華麗な黄昏が訪れる。」

 これは、山崎豊子氏の「華麗なる一族」の冒頭文だ。【志摩観光ホテル】を常宿としていた山崎氏が宿泊していたときに執筆したものだという。こうしたエピソードをはじめ、開業以来、このホテルには名士たちが訪れたときの様々な逸話にことかかない。彼らはホテルからの絶景を楽しみ、そしてここで食べられる伊勢志摩ならではの食材を使ったフランス料理に舌鼓を打った。

 2016年5月26~27日。伊勢志摩サミットの会場として、G7の首脳陣たちを迎えたのもこのホテルだった。この時、26日のワーキングディナーを担当したのが総料理長の樋口宏江さん。各国の首相をもてなす料理を指揮するシェフが、2014年に総料理長に就任した女性シェフであることは瞬く間にニュースになった。その後、積極的に地元の生産者と交流をはかり、彼らの知恵と工夫による食材を料理を通して紹介する地域活性、伊勢志摩の食文化の発信の貢献が認められ、2017年、農林水産省料理人顕彰制度「料理マスターズ」のブロンズ賞を女性ではじめて受賞する。

樋口宏江総料理長。志摩観光ホテルに入社後、23歳の若さでホテル志摩スペイン村【アルカサル】シェフに抜擢。2008年フレンチレストラン【ラ・メール】のシェフに就任。2014年志摩観光ホテルの総料理長に。

伊勢志摩サミットのワーキング・ディナーで
総指揮を任された樋口宏江シェフ

 お目にかかった樋口シェフは、華奢でいつも穏やかな笑顔を浮かべている美しい女性だった。ただでさえ女性が少ない総料理長という立場で、世界の首脳陣が一同に介するサミットの料理を取り仕切る、というのは想像できないくらいの緊張感あふれる現場だったに違いない。その時の様子を聞くと、「当日は本当に緊張してあっという間に時間が過ぎていました。料理を出し終えた後、首相陣にご挨拶をする栄誉に恵まれました。そのときに、メルケル首相に『あなたが作ったの?』と声をかけていただき、握手していただいたのは嬉しかったですね」と謙虚に話してくれた。

レストラン【ラ・メール ザ クラシック】のダイニング。英虞湾の絶景を見ながらの食事は最高だ

実は【志摩観光ホテル】が伊勢志摩サミットの会場に決定した、と発表があったのは、2016年2月のこと。しかしそのときは、ワーキングディナーを始めとする首相陣への食事担当が樋口シェフになるかは決まっていなかった。 “そうなることを予測して準備を重ねてた”とはいえ、そこからホテルのレストランチームをまとめ、関係各所と連携し、見事に仕事を務めたバイタリティは、そのほっそりとして控えめな印象からは想像もつかない。

『伊勢海老のアメリカンソース』生きたままさっとボイルをした伊勢海老を半割にしてアメリカンソースをかけた一品。焼きすぎないのがポイント

 そんな樋口シェフが料理人になりたいと思ったきっかけは、料理上手な母親だった。手伝いをしているうちに、フランス料理に憧れて18歳で調理師専門学校へ入学。卒業後、「女性でも料理人として受け入れてくれるところ」だった【志摩観光ホテル】に入社、以来ここのホテル一筋だ。

 師匠は【志摩観光ホテル】の料理を一躍有名にした、先々代の料理長、高橋忠之氏。当時、高級なフランス料理がヨーロッパからの食材でつくられるという流れのなか、“遠くから伊勢志摩にわざわざ足を運んでもらうために”と地元の伊勢海老や鮑をつかった料理を考案。『伊勢海老クリームスープ』『黒鮑のステーキ』などの料理はホテルを代表する名物となった。

サラマンダーで焼き目をつけてアツアツの状態でだされる『伊勢海老クリームスープ』。伊勢海老の濃厚な香りと甘味が生クリームのまろやかさと出合う

 今でもその味を楽しみに訪れるお客様のために【志摩観光ホテル ザ クラシック】のメインダイニング、レストラン【ラ・メール ザ クラシック】では、誕生当時のレシピそのままの料理がメニューに並ぶ。伊勢海老のしっかりとした香りと旨みが凝縮された『伊勢海老クリームスープ』は驚くほど濃厚。安倍首相が幼少のころに食べて、忘れられなかった、という逸話も納得がいく。

伝統と革新。深化と進化。
培われた哲学はそのままに新しい風を吹かせる

『鮑のポワレ あおさ香る鮑のソース』むっちりと肉厚の鮑を贅沢に

一方で、樋口シェフは【志摩観光ホテル ザ ベイスイート】のフレンチレストラン【ラ・メール】では「今の時代に合う、旬の恵みを活かした料理を提供したい」と、ホテルに代々受け継がれる哲学はそのままに、独自の新しい料理をつくりだす。

 例えば、この鮑の一品は、しっとりと肉厚なあわびの食感をいかしてポワレにし、あおさと鮑の肝をあわせたソースを添えている。驚くほどの厚みだがナイフがすっと入り、もちっとした鮑の身からは磯の濃厚な香りが広がる。その天然の香を、あおさと肝のソースがさらに華やかに支える。

 サミットのワーキングディナーでは、伝統的な『伊勢海老クリームスープ』を『カプチーノ仕立て』に。軽やかに現代的に仕立て、女性シェフらしい軽やかな感性でメニューに組み込んだ。

志摩観光ホテルの鮑のおいしさは、下ゆでにあり。この肉厚でもっちりとした鮑は一度たべたら忘れられない

 この、黒鮑の独特なしっとりとした食感は、師匠譲りの下処理がポイント。3~9月、海女の漁期に、彼女たちが獲ってきた鮑を料理をする前に、大根と水、塩、鮑を入れて2時間煮る。さらに煮汁につけておいておくのだ。この大根とゆでる、というのは和食の技法からの発想だそう。

「先々代総料理長はとても厳しい方でした。料理はもちろん、そこにどう向き合うかという心構えから、物の置き方、歩き方といったところまで教えて頂きました。そして、素材の持っている力をシンプルに最大限に引き出し、最高の状態で出すことを徹底されていました。さらに、シンプルな分、料理の盛り付けには細心の注意を払っていました。鮑も少しでもセンターからずれていると怒られました」と語る樋口さん。でも、そうした指導が体に染みつき、今では本当に感謝していると懐かしそうに笑う。

敷地内の温室でハーブティーのためのハーブを摘む樋口シェフ

 2014年に総料理長に就任後、少しずつ自分がチャレンジしたかったことも形にしてきた樋口シェフ。ホテルの敷地内の使われていなかった温室にハーブを植え、料理や食後のハーブティーに使用する。そうした女性らしいきめ細やかなゲストへの心配りがまた、魅力的だ。

 「【志摩観光ホテル】には【ラ・メール ザ クラシック】と【ラ・メール】の2つの違ったタイプのレストランがあります。ホテル伝統のレシピを忠実に守る【ラ・メール ザ クラッシック】ではクラシックな料理を深める“深化”を、そして新しいレストラン【ラ・メール】では、サービスも調理も“進化”をしていきたい。両方にチャレンジできるというのは、とてもやりがいがあります」

【ザ クラシック】の重厚さとはまた趣が違う、明るい軽やかな雰囲気のフレンチレストラン【ラ・メール】

 サミットを経験して、さらにパワーアップした樋口シェフがつくる〝クラシックなフレンチ″と〝進化したフレンチ″。どちらも違った魅力を放っている。「御食つ国」の歴史と文化が根付く場所で、神にささげる食材を使って女性らしい感性でつくられる料理。そのどちらもが、まさにここに旅をしないと出会えない、唯一無二のものだ。

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