逃げたくなる自分を変える、好きなこと
――宮崎県ご出身。そもそも料理に興味を抱いたきっかけはなんだったのでしょうか?
うちは父が保険会社を経営していて、兄と弟が家業を継いでいます。シェフの道を選んだ背景として、2歳上の兄の存在が大きかったと思います。兄は優秀で、学校も同じだったのでいつも比べられていて、兄弟とはいえ、別の個性を持った人間なのになぜ兄と同じ土俵で評価されるのかと、疑問に思っていました。なので、子どもの頃から部活動も兄と重ならないものを選んだり、自分自身でありたいという思いがとても強かった。家業を継がずに料理の道を選んだのは、元々おいしいものが大好きで自分でつくれたらいいな、と思ったからではあるんですが、どこかに「自分らしくいたい」、そんな思いがあったのではないかと思います。
――高校を卒業後、大阪の辻調理師専門学校で学び始めますね。
はい。着飾るのが嫌いなので正直に言うと、当時は実家を出て都会での一人暮らしも楽しかったですし、生きていければそれでいい、という感覚で学校にも通わず、配膳のアルバイトばかりしていました。(辻調理師専門学校の)フランス校に行ったのも、進路を決めなくていい期間が増えるからという理由でした。
――そんな自分が変わったのは、どんなきっかけだったのですか?
料理学校を卒業して、最初に就職したのが【フロリレージュ】だったんです。食べに行ったらすごくおいしくて、感動して「働かせてください」とお願いしたら、運よく働くことができたんです。でも、働いて気づいたのは、自分の不器用さでした。
毎日先輩に怒られて、「あぁ、料理人には向いてないんだな」と思っていました。何事も1回目では120%できないので、人一倍働いて量をこなすしかなかったのですが、性格的に自分に甘いので、キツイと逃げたくなる。そんなときに【フロリレージュ】の川手シェフから、「今日を一生懸命生きてない人間に、明日は来ない」と言われて。実際に、川手シェフが誰よりも努力しているのもそばで見ていてよくわかった。だからこそ、自分も変わらなくてはいけないと思いました。
そして気づいたのは、周りに流されやすい自分を成長させるのは、逃げられないような環境に身を置くことでした。逃げられないから、もうやるしかない。そうなると意外にも努力できる自分を発見して。あとは流されやすいぶん、周りにいる人が頑張っている環境だと、いい意味で流されて頑張れるようになった。逃げられない環境をつくる、それは今でもいちばん大事にしています。
――そこから【カンテサンス】に行かれたのは、どんな理由から?
【フロリレージュ】での最初の頃は、毎日本当にいっぱいいっぱいで仕事をしていたのですが、仕事に慣れてきた頃に、“自分に甘い”性格が出てきてしまっていたのを自分で感じていたので、「自分が思うよりも厳しい環境、大変なところに行かないと成長できない」と川手シェフに相談したら、「それなら【カンテサンス】がいいんじゃないか」という話をいただいたんです。そして、このまま流されると生活ができなくなる、という危機感と覚悟をもって、【カンテサンス】の門を叩きました。
――【カンテサンス】の厨房はいかがでしたか?
当時、【フロリレージュ】の厨房はまだこぢんまりとしていて、シェフと相談しながら毎日の仕事を進めるような雰囲気でした。でも三つ星の【カンテサンス】の厨房は大きくて、先輩との接し方一つとっても、一から勉強する形で、慣れるまでに1〜2年かかったと思います。
でも、料理の楽しさを教えてもらったのは、この【カンテサンス】でした。賄いを任せてもらって、「おいしい」と言われたとき、本当にうれしかった。それに最近気づいたのですが、僕は料理人らしい料理人じゃないんです。
――それはどういう意味でしょうか?
この業界には「ザ・料理人」という方も多くいます。いわゆるクリエイターとして、料理をつくり上げること自体がすごく好きな人。でも、僕はそういうタイプではなくて、例えば自分のために料理をつくる気は全くしない。誰かのためにつくるからこそ頑張れるし、ちゃんとつくらなくては、と思えるんです。
好きなのは料理の先にいる“人”
――料理そのものよりも、料理の先にいる“人”を見ている感覚でしょうか。
そうですね。料理が好きなのは、料理を通していろいろな人と知り合えるから。元々人が大好きで、コミュニケーションをとるのが楽しい。料理はコミュニケーションのための手段だと感じています。
――【カンテサンス】でそのことに気づかされた、ということですね。その後、【赤坂しょう山】で日本料理を学ばれますが、それはどんな理由からですか?
知り合いに紹介されたのがきっかけだったのですが、重たく思われがちなフランス料理に、和食の軽やかさを取り入れて自分なりに変えていきたいと思ったからです。【赤坂しょう山】は、いわゆる赤坂の料亭で和食店ですが、オーナーの奥様が新しいもの好きで、「イノベーティブな料理も出していい」と言ってくださって。最終的には料理長として2年半ほど働きましたが、和食のコースバランスの綺麗さや素材の活かし方がすごく勉強になりました。
【Jfree】で出す料理の流れも、【赤坂しょう山】で学んだことを反映しています。始まりはやさしく、メインディッシュにはインパクトを持たせつつも、最後のデザートは重たすぎないように、軽く仕上げる。デザートは旨みと甘みが強いと重たく感じられがちなので、それを和らげる意味合いで、苦味や酸味を効かせるようにしています。そうすると食後感が綺麗になります。最後は、甘みが少なくてワインにも合う宮崎名物の『チーズ饅頭』を出すようにしています。
――今のスタイルにもつながる重要な学びでもあったのですね。【Jfree】はジェフリー、と読むそうですが、これはご自身のお名前がベースになっているそうですね。
陣内の頭文字である“J”。それに、フランス料理店なので「私」という意味のフランス語、“Je”をかけ合わせたもので、それに自由という意味の英語「free」を合わせたものです。自由に、自分らしくいたい。そんな思いを込めました。
“ハッと”ではなく、“ホッと”する料理を
――自分らしさや個性の出し方では、どんなことを意識していますか?
個性でいうと、最初の修業先である【フロリレージュ】の川手シェフは、個性とセンスで仕事をなさっている第一人者だと思っているのですが、その川手シェフに言われたのが、「うちで働くなら個性を伸ばしていかないと、働く意味はない」という言葉です。それがきっかけで、伝統に縛られるのではなく、自分のスタイルを表現する料理をしていこうという心が定まりました。
僕が好きなのは、何の食材を食べているかはっきりとわかるシンプルな料理ですが、シンプルなだけでは物足りない。その中に、ワンポイントだけ個性を入れて軽く仕上げるのが自分らしい料理だと思っています。
――コロナ禍中の独立ですが、元々この年齢で独立しよう、と決めていたのですか?
いつか独立したいとは考えていましたが、自信がなかったので、「足りない。今じゃない」と、今思えば先送りにしている状態でした。ですが、コロナ禍でたくさんの店が閉店や休業するのを見て、「こういう状況だからこそ、自分でやろう」と決断できました。
30歳を過ぎて、いまお店を出さなかったら、多分もう出さないだろう、という瀬戸際のラインだとも思っていたので。それに、足りないところは店を開いてからも補えるはずだと。
性格上、やるならば中途半端にではなく、“逃げられない環境”でやりたかった。だからこそ、自己資本100%での出店を選びました。コロナ禍に終わりが見え始めた頃で、飲食店の出店に対しての融資も受けやすかったですし。“逃げられない環境”を最大にするために限度額まで借り入れて、自分にプレッシャーをかけました。ただ、店を大きくするつもりはなく、細く長く続けていきたい。だから、厨房や内装などにはしっかり予算をかけました。昼も夜も満席じゃないと返済ができないから、これほどシビれる環境はありませんね(笑)。
「スターシェフ」にはなりたくない
――独立の際に、意識されたことはなんでしょうか?
まず小さい店にしたのは、コロナ禍で飲食業界から他業種への転職が多く、働く人がとても少なくなってしまったということもあり、人に左右されないお店にしようと思ったから。そして、軽やかな料理にしたのは、元々自分自身が胃もたれを感じやすいタイプなので、料理に生クリームやバターをあまり使いたくなかったのと、ターゲットにする世代を考えたときに、人口が多い50〜60代ぐらいの世代がメインの層になることを意識したからです。
50〜60代というと、フランス料理のおまかせコースが重たく感じる年齢になる頃だと思うんですけど、軽く綺麗な料理ならば通いやすいじゃないですか。僕は料理でしか表現できないので、料理の軽やかさと【Jfree】らしさを大事にして、「あそこにしかない空間、あそこにしかない料理だよね」と言っていただければうれしいです。
――“ここにしかない料理”は、どんな風に生まれるのですか?
自分自身が、「いい!」と思える料理をつくること、それに尽きると思います。例えば目の前に食材を置いたとき、自分ならどう食べたいか、を考えるべきだと思っています。
――お店のこれからを、どんな風に描いていますか?
僕は、いわゆる「スターシェフ」になりたくない。もちろん、お客様に来ていただかないとビジネスが成り立たないので無名すぎると困りますが。例えば、出かけたときに「あ、あのシェフだ!」と気づかれるほど有名になりたいと思わない。
フランスに住んでいたときに思ったのは、プライベートも仕事も大切にする、ワークライフバランスの観点。有名になりすぎるのもそうですし、仕事に割く力が大きくなりすぎて、プライベートが侵食されていくのは自分に合っていないと思います。
――そういった意味でも“自由でいたい”ということですね。
そうですね。そう思ってオープンしたんですが、今のところ一人で全部やらなくてはいけないので、全く自由ではありませんでした(笑)。毎日、厨房を掃除するのも一人ですし、営業後の掃除を終えたら午前4時、なんて日もあります。いまはお客様に自由を感じてもらって、いつか自分も少し自由になれたらいいかなと。
あとは、最低限家族やプライベートを守れるビジネスにすること。でも逆に、近しい部分を守れているのであれば、僕はそれでいいと思っているので、そこからもっと大きくなりたいとは思っていません。商売っ気がないというか、有名なシェフになったり店を大きくしたりするよりも、自分らしく過ごせて、家族が守れて、お客様が喜んでくれる。そんな風に、この店をずっと長く続けていきたいですね。
撮影 / 今井 裕治 取材・文 / 仲山 今日子 2023.4.17