東京と熱海、スタイルの異なる2つの店
――まさに、「波乱万丈」という言葉がふさわしい人生を歩んでいらっしゃる五十嵐シェフのお店が、【美虎】。今回お邪魔している東京店は、幡ヶ谷駅から徒歩数分の、閑静な住宅街にあり、もう一店は熱海に。この展開には、コロナ禍も影響しているそうですね。
コロナ禍で、飲食業界が大変な状態になっていくなか、思いきって銀座店を、夫の実家のある熱海に移転することにしました。熱海の店は半分、テイクアウトなどの工場になるセントラルキッチンにレストランが併設されたようなスタイルの店で、地元静岡の食材を使いながら料理をつくっています。
そして、この東京の店は完全会員制で、一か月に10日間だけの営業で、私がつくりたい料理をつくらせていただく形です。10年ほど前に「後縦靭帯骨化症」という難病を発症してしまい、毎日現場で、鍋を振ったりできるわけではないので、いろいろな企業の商品開発や食育、プロデュース店をやらせていただき、全体を通して私の考える「体が元気になる中華」を伝えていっています。
――大変な経験をされたのですね。具体的なメニューは、東京と熱海では違うんでしょうか?
完全に違います。東京は今、私が伝えたいこと、大切にしたいことを軸に、毎月メニューが変わります。熱海は、静岡のおいしいものを、どうやって地元の方や観光の方に知ってもらうかという切り口でいろいろとつくっています。
料理人の原点「ありがとう」
――さて、ご実家は中国料理店だそうですが、料理の仕事につくことになったきっかけを教えてください。
子どもの頃から学校の勉強よりも、店のお手伝いをしなさいと言われて育ちました。
小学校2〜3年生のチラシ配りから始まって、4〜5年生ではホールに立っていました。お金をいただくとき、お客様から「ありがとう」って言われたり、「おいしかったよ」って言われたりすることが本当にうれしかったんです。
――当時、女性料理人は今よりも少なかった時代ですね。実際に料理の世界に入って、男性だったらよかったと思うことはありましたか?
やっぱり体力面ですね。女性は筋肉量が少ない分、中華鍋のような重いものを長く持てず、悔しい思いはとてもありました。どうやって筋肉を維持すればいいか、スポーツドクターに診てもらって、一から肩の筋肉をつくったりもしていました。それでも、腱鞘炎は当たり前、治りかけてもすぐ炎症が起きるので、しょっちゅう炎症止めの注射を打ちに行っていました。
そうしているうちにホルモンのバランスが崩れて、自律神経にも影響が出てきた。それでもホルモン注射を打ったりもしていましたね。若い頃は、体力だけでなく、精神的にもきつい時期がありました。
――そんなにきつい思いをしながらも、諦めずに乗り越える原動力となった思いはなんだったんですか?
絶対諦めないと決めていたのと、「やっぱり女性の料理人は無理でしょう」って言われたくなくて、もう死んでもいいから絶対に続けてみせる、という、もう半分意地でした。
「彼女を勝たせちゃダメ」
――人生の大きな転機と言えるのが、『料理の鉄人』への挑戦ですね。
そうですね。あの若さで出させていただいて、怖いものも失うものもありませんでしたから、ただがむしゃらにやっていたんです。
結果は負けたのですが、それには審査委員の岸朝子さんの特段の配慮があったと聞きました。若いから審査委員も応援してくれて、最初は同点だった。でも岸さんが「彼女がもしここで勝ってしまったら、彼女の人生はめちゃめちゃになってしまう」と言って、思いっきり点数差をつけたんです。結果的には負けたんですが、岸さんのおっしゃった通り、あそこで勝っていたら、いま、料理をやれていないと思います。
――なぜなんでしょうか?
テレビの怖さ、でしょうかね。番組で注目されたことで、バッシングされることも増えました。その悔しさもあるから、意地でも頑張って続けて結果を出す、人の何倍も努力するしかないと思って働くんですが、体も、精神的にも追い込まれて、ホルモンのバランスも崩れてしまったのです。料理の勉強が楽しくて大好きだったはずなのに、気づいたら、料理が辛いものになってしまっていました。
岸さんには、きっとそういう未来が見えていたんでしょう。もしあそこで勝っていたら、きっとこの何倍ものストレスにさらされて、辛過ぎて料理をやめていたと思います。
――やはり栄光を手に入れるためには栄光を背負うだけの、覚悟、背骨の強さが必要だと。
そうですね。さらに、経験を積むにつれて、父がもともとつくっている料理との考え方の違いも出てきました。私は、もっと健康的で、毎日でも食べられる中華をつくりたいと考えていた。でも父からは「お客さんがそんな料理を食べに来るわけがない」と言われて。意見の食い違いも、料理が辛くなった原因の一つでもあります。
そんなときでも、業界の先輩たちにはとてもかわいがってもらいました。
「中国のどの地方の料理なんですか」と聞かれて答えられなかったときにも、陳建一さんが「そんなの関係ない、美幸がつくる料理は、美幸の中華だ」と言ってくださったり。ほかの先輩たちにも、「お前が女性料理人として頑張っていくことで、女性の料理人がきっと増えていくから」とすごく応援してもらいました。プレッシャーでもありましたけど(笑)。
価値観が音を立てて崩れた
そんなときに、お世話になっていたお店の女将さんに「人の幸せをつくるのが料理人の仕事でしょ? だったら、まずあなたが幸せになりなさい」って言われたんです。
その一言で、自分の価値観がガラガラガラッって崩れました。そこで初めて「自分にとっての幸せってなんだろう」って考えるようになって。一度、なにもかも捨てて、ゼロになろう、いったん料理からも離れようと決めて、実家を出たんです。
でもまあ、3日もしないうちにですね、料理がつくりたくて仕方なくなって、友達の家につくりに行きました(笑)。そうして、出張料理なんかをやったりするうちに、やっぱり自分で店を持とうと決めて。全財産も実家に置いてきたので、友達からお金を借りて、【美虎】を開店したのです。
――ゼロからのスタートだからこそ、自由になれた?
毎日食べて体が元気になる中華という目標があったので、お客さんの声を聞きながら、だんだんと自分の料理の形をつくり上げていきました。
実家の看板も、『料理の鉄人』に出たことも、全部捨てて、素直な自分で料理ができるから、批判も財産として受け止められるようになった。ありのままの自分で生きられる幸せを初めて感じました。
――そんななか、病魔に襲われてしまうのですね。
独立して4〜5年ぐらい経って、やっと波に乗ってきたという矢先に、厨房でうずくまってしまうほど、腕に激痛が走るようになって。病院に行ったら、重い鍋を振っていたため、後縦靭帯骨化症という難病だと診断されました。骨化してしまった首の軟骨を削り取り、そこに骨盤の骨を移植して補強する手術を2回、そのうちの一回は10時間にわたる大手術で、リハビリも大変でした。
それでも、料理が苦しくなったときほどの辛さはなかった。
「頑張ればどうにかなるし、できることをやればいい」と開き直れたんですよね。自分が鍋を振れないのなら、信頼できるスタッフに任せればいい。病気になって、やっぱり、無理はいけないと学びました。それまではなんでも自分がやらなければ気が済まなかった。そうではなくて、人に頼む勇気を持てた。辛いときは辛いって手を挙げて、助けを求めようって思えるようになったのが、一番の大きな学びですね。病気を通して、人間として少し大きくさせてもらいました。
料理も、子どもも。それでいい。
――そういう流れのなかで、結婚をされてお子さんも授かった。どのように両立されていらっしゃいますか?
一流の料理人になるために、結婚や子どもを諦めなきゃいけない、ということはないと思うんです。私は、結婚したタイミングがある程度高齢だったので子どもは諦めていたんですが、本当にある日突然授かって。
昔から10歳年下の弟の面倒を見てきたので、仕事と子育ての両立は大丈夫だと思っていたんですが、実際に生まれてみたら、簡単ではなかった。
「もうなに、この子! どうしたらいいの!」って本当にワケがわからなくなるくらい(笑)。世の中のお母さんってすごいなーって。子育てがいかに大変かがわかったし、育てるっていうよりも、逆に大人が育てられるんだな、とすごく感じましたね。
テレビの仕事をしていた主人が会社を辞めてくれて、お店の経理などの事務作業、そして、子育ても二人三脚で一緒にやってくれています。そうやってみんなに協力してもらいながら、私がそばにいたいと思ったときに子どものそばにいられる環境ができました。店舗の上が住居なので、お客さんにもお店のスタッフにも、「今、子どもを見に行きたいので」と言って、ちょっと仕事を抜けて、子どもの世話をしに行ってます。
「こうじゃなきゃいけない」なんてことは、この業界、ないはずなんです。”女性が働き続けられる”世の中のためにも、「私はこうしたい」とはっきり伝えることは大切だと思います。まずは言葉に出して、自分を知ってもらうこと。私は子どもも仕事も、大切で大好き。だから、それを誠実に伝えて、理解していただいて。それが嫌なお客さんは来なくなってしまうかもしれないけれど、それは仕方ないと割りきって、我慢をしないこと。
「そんなの一流じゃないよ」と言われてもいいじゃない、と開き直れるようになりました。
「素直に」食材に向き合うこと
――その強さを持てたのは、【美虎】をオープンされたときに、自分が一回ゼロになって、素直なそのままの自分で料理と向き合ってきたからこそ、かもしれませんね。
これまでの経験で学んだのは、自分が素直にならないと食材をちゃんと扱えないということです。例えば、私がすごくイライラしたりして葉物を触れば、しおれてしまう。食材は、やっぱり生きて、命のあるものなので、私がつねに健康な体と心でいること、みんなに協力してもらいながら、それを保つことを最も大切にしています。
そして、自分で思い悩むだけでは、なにも解決しない。何度も言いますが、ちゃんと言葉にすることで解決策が出てくるものだと思います。
――きちんと発言することは、若い女性シェフや料理人が活躍しやすくなる世の中をつくることにもつながっていきそうですね。
これまで一流の料理人になるには、生活の多くを犠牲にして、厳しい修業をする方法しかなかった。もちろん、その経験値というのは大切です。でも例えば、毎日修業しなくてはいけないのではなくて、週に3〜4回働いて、その代わり長い時間をかけて技術を習得する方法だってあると思います。
そうすれば、料理人になるには人生を犠牲にしなくてはならない、なんて考えなくてもいい。柔軟な働き方ができれば、料理人の数、女性の料理人の割合も増えていくと思います。全員がハッピーであるということが一番大切だと思います。
若い料理人の方から「料理人で、結婚や子どもを望むのは贅沢なことなんですか」と、よく手紙やメッセージもいただきます。「そんなことないよ、あなたが好きなように生きなさい」と答えています。きっとこれから時代が変わっていくのではないかと思います。
――その一番辛かったときの自分に、今、メッセージを送るとしたらどんな言葉を贈りますか?
「私は幸せだよ」でしょうか。経営も、まだまだコロナ禍の影響で大変だったり、問題は年中起こったりするし、困難に直面することもしょっちゅうあるけども、心が健康で、大切な人がたくさんいることが、やっぱり本当に幸せだなって、いつも思うんです。
「人を幸せにする」ためのもの
――成功のための秘訣を挙げるとしたらなんでしょう?
一番に心がけているのは「執着しない」こと。人に対しても、物事に対しても、自分の希望や願いはあったとしても、それがエゴにならないように気をつけています。私は気が強いし、思いも強いので、料理に自分が出過ぎてしまいがち。そこをいったん引いて冷静に考えて「ああ、もうこれ、私のエゴだ。こういうふうに考えるのはやめよう」と、人間の悪いところの気持ちは出さないように、自分をなるべく消すようにしています。
大切なのは、厨房で、まっさらな気持ちで、その日その日の食材や、気候に向き合って料理をつくること。私たちはあくまでも食材とお客様をつなぐ仕事。そのままでもおいしい、素晴らしい食材に、私たちが手をかけることで、価値を加えないといけない。「このトマト、この肉、おいしかったね」とか、「体が楽だよ」という声をいただくと、食材を生かすことができたとうれしくなります。
――とはいえ、いつも穏やかな気持ちでいられるとも限りませんよね。自分の気持ちをリセットするための秘策はなにかあるんですか?
甘いものを食べること(笑)。
あとは子どもと過ごす時間でしょうか。子どもの屈託のない笑顔だったり、素直な言葉だったりで、どれだけ自分がリセットされて、どれだけ綺麗な心を保つことができているか。本当にそこが、私にとっては一番大きいことですね。
――いまの夢を教えていただけますか?
もうすぐ50歳、これから料理人としてどう生きるべきかを考える年になってきました。中華というジャンルに関係なく、人が幸せになる料理をつくりたいなと思います。
それから、日本はだし文化、日本の味覚を守りたいですね。食育という意味で、離乳食だったり、それから、自分が年をとったときに、本当においしいものを少しだけ食べたいので、介護食だったり。これからはそちらに思いきり力を入れていきたいと思っています。
難病はいまも完治したわけではありません。つねに自分と体と心のコントロールをしていきながら、現場に立たなくてもできる料理の仕事もやりつつ、人の体と心が健康になり、幸せになるものを、これからもつくり続けていきたいです。
撮影 / 原 務 取材・文 / 仲山 今日子 2022.5.25