人と違うことを目指すなら、人と違うプロセスを辿るしかない。
修業時代にそう考えていました
――堀江シェフと言えば、イタリア版のミシュランで初めて星を獲得した日本人シェフとして知られています。
2002年ピエモンテ州の【Ristorante
Pisterna】のオープニングシェフに就任して、2004年に星を獲得したのですが、まず言えるのは、イタリア人に信用されたということが一番大きいと思います。
料理の技術で言えば、ずっと星付き店で修行をし、食べに行くのも星付き店だったわけですから、そのレベルの料理をつくる自信はありました。けれども、ミシュランの星を獲るには、当然、自分がイタリアにある店のシェフでないといけないわけですよね。なにせイタリア人ほど、ファミリー以外の人間を信用しない人種もいないわけですから、日本人の僕を信頼して、新規オープンのお店のシェフをやらせてもらうということが、その当時では画期的なことでした。
そんな環境のなかで星を獲るということは、その当時のイタリア料理界にとっては、月面に着陸するくらい画期的なことだったかもしれません。それまで誰も想像していなかった始めの一歩をぼくがつくったわけですから。そういったすべての要素を含めて、仕事は裏切らなかったということですね。
――「仕事は裏切らない」と言いますと。
当時、日本人の料理人がイタリアで修行する際、日本の有名店に少しいた後に渡伊し、2~3年の間にイタリアを何州か回って引き出しを増やして、そして「星付きのレストランで何軒働いた」と経歴をキラキラッと輝かせるというスタンスが主でした。けれども、僕は、そもそもファミレスのアルバイトぐらいしかしてなかった状態でイタリアに渡ったんです。だとしたら、既に料理人修行を始めている人が2~3年かかるところを、自分は5~6年以上かかります。その覚悟は決めていましたし、人と違うことを目指すのだったら、人と違うプロセスを辿るしかないと考えていました。
あと、自分は文化論から入ったんです。食文化の土台となるイタリアの文化を、まずきちんと知ろうと考えていました。「星付き店だろうが、2ヶ月程度いただけで文化を知れるわけはない」、と。ですので、僕は、一つのお店にできるだけ長くいて、最低でも四季を通じて、どんな人がいて、どんな食材があって、どういう歴史があるから、この料理がつくられているんだというのをしっかりと掴みたいと思っていました。
そんな考えのもと、僕はトスカーナに3年、ピエモンテに6年いたわけですが、今では結構長く向こうで働く方も増えているので、もしかしたらぼくの体験をもとに、影響を受けてくれた方もいるのかもしれません。
世界規模で考えれば、銀座何丁目というよりも、東大寺と
春日大社の真ん前といったほうが、わかりやすいですよね
――その後、帰国なさいますが、そのままイタリアで仕事を続けることは考えなかったのですか。
ピエモンテで働いていたときも、日本から料理雑誌が送られてくるわけです。それを見ると、「東京イタリアン」という不思議な料理が流行っていました。イタリア料理の本質は何もない、けれども華やかでオシャレなテイストを、何となくイタリアンっぽくまとめている、フワフワっとした百年後にはないだろうなという料理がもてはやされていた。いろいろな人がいろいろなことを考えて良いわけですから、面白いと言えば面白いんですが、根っこがあり、幹が育ち枝が伸びていく、そんな必然的な縦軸をまったく感じられなかったわけです。
ぼくは、イタリア人からイタリア料理を教えてもらい、イタリア人にその料理を食べさせてきたという縦軸をしっかり持つことにこだわってきた人間ですから、一回東京のど真ん中で、自分の骨太なイタリアンをポンっと置いたらどうなるか、という気持ちが強くなったんです。
――なるほど。しかし、東京で【LA GRADISCA】を成功させつつも、また奈良に来るという選択をなさいました。
西麻布に身を置いてみたら、それなりにお客様も入って頂きましたし、評価も頂いたのですが、たまたま縁があって、現在の場所でお店を開かないかというお話をいただいたんです。その時に、改めて、自分がイタリアにいたときに、イタリアの好きな部分って何なんだったのかと見つめなおしたら、奈良のほうがその感覚に近いかなと思ったわけです。
例えば、ヨーロッパでは、小さな村とか街に名店がたくさんありますよね。城壁に囲まれてた旧市街があって、馬車道サイズの石畳の道があって、その土地にしかないワイン、料理、食材があって、それらを生かす良いレストランがあります。そうすると、行く計画を立てる楽しみ、街を知り、歴史を知り、食事をするという行った先での楽しみ、そして帰って思い出す楽しみ。そういったことを全部セットで楽しむことができる場所でやるほうが、イタリアチックで面白いと思ったのです。そう考えると、銀座何丁目とか青山何丁目というよりも、東大寺と春日大社の真ん前というのは、すごくシンボリックですよね。
ヒトとモノが集まる都。
それを象徴した「都の料理」を提供したい
――【イ・ルンガ】のオープン当初、世界に発信できるようなレストランにするとおっしゃっていたそうですが。
それも、奈良だからです。東京とはまた違う意味で世界に近い感覚はありました。日本で一番古い都ですから、それはもっと世界にアピールできると思うんですよ。例えば、西欧の人間はヨーロッパの石造りの文化のなかで暮らしているから、木の文化にすごく憧れを持っているのです。法隆寺と東大寺と日本最古の木造建築と最大の木造建築が残っているのに、奈良は、そこをアピールし切れていない部分がもったいないな、と感じていました。全部京都にとられてしまっていますから。そういう街が持つ文化をアピールしながら、さらに美味しいお店もあるということになったら、面白いパッケージだと思うんですよね。
――料理や食材に関しても、奈良らしさということは意識しているのですか。
ここで提供している料理に関しては、「都の料理」という考え方をしています。「都」というのは、ヒトやモノが集まる場所の象徴ですね。いわゆる地産地消を意識しすぎてしまうと、自分ができることの範囲を限定してしまうことになりますので、それを内包している料理と言えばいいでしょうか。
食材に関して、真っ先に考えるのは、当然美味しいことです。珍しいからといって使うことはありません。自分にフィットする食材じゃなくちゃダメです。北海道・十勝の村上農場の「熟成じゃがいも」、ボーヤファームの羊など、替えがないものをつくっている生産者さんの食材は、当然彼らから仕入れます。ただ、質をクリアし、お客様のテーブルでの会話のタネになるのであれば、「大和野菜」、「大和牛」など地元の食材も積極的に使います。県外から来るお客様が「こんな食材があるんだ?」とか、地元の方に対して普通味噌汁やおひたしにしている大和野菜が「調理法によってこんなイタリアンになるんだ?」、そんな発見があることによってエンターテイメントになればいいと思います。
そう、レストランというのはエンターテイメントだと思っています。ただ、料理に特化した「美味しかった」という言葉を頂きたいのであれば、極端な話、屋台でもいいと思います。でも、総合的に「楽しかった」と言ってもらうために、什器であったりとか、インテリアであったり、いろんな仕掛けがしてあるわけです。東大寺の前で、立派な門から暖簾をくぐってアプローチを歩き、そして武家屋敷を改装した建物があるということを含めて、すべてエンターテイメントだと思うんですよ。料理やサービスの総合的なチーム力にプラスαが必要ですので、そういった店づくりを目指したいなと思っています。
撮影/高田 ますみ 文/杉浦 裕