日本で得た宝。それは最強のチーム
――日本で【ブルガリ イル・リストランテ ルカ・ファンティン】のシェフになられてどのくらい経ちますか?
丸8年経って、今9年目です。自分の目の前にあった素晴らしいプロジェクトに夢中になることで自分のモチベーションも高まりましたし、今までやってこられたんだと思います。キャリア上も、一個人としても、成長することができた年月でした。幸運なことに長い間一緒に働いてくれるチームを作ることができました。もちろん、表に出るのは私ですが、一人では何もできなくて。優秀な人たちと素晴らしいチームを作ることができたのです。それがあったからこそ、評価いただけるレストランのレベルに到達することができたと思っています。
――今年は『アジアのベストレストラン50』の28位にランクインされました。おめでとうございます。どういう気持ちですか?
本当に素晴らしい体験でした。これほど上位に入れると思っていなかったので、自分にとっては大きな出来事です。一緒に働いているチームにとっても、新たなモチベーションになったと思います。『アジアのベストレストラン』に入ったからといって給料が上がるわけでもないし、就労時間が短くなるわけでもないですけど、ただやっぱり皆のモチベーションが高まりますよね。「自分の努力が評価されたんだ」という思いにつながると思います。
――最初に日本に来た時に、苦労したことや、大変だったことはありますか?
やっぱり最初は文化の違いですよね。特に、伝えようとしていることを正しく理解してもらうことに壁を感じました。日本の方って、思ったことを直接言わないじゃないですか。直接話している時に「はい」と言っても、実際には同意していなかったり。だからコミュニケーションの取り方がちょっと難しかったです。でも、自分の持っている知識、技術をチームの皆に説明して一緒に働くことでその壁を乗り越えました。私が若い頃はシェフと直接話せる時代ではなかったのです。誰か間に人を介して、さらにもうちょっと上の人を介してシェフと話をする。そんな時代でした。でも、私自身はまかないも一緒に食べますし、皆と話をします。時間があれば一緒に過ごします。厨房の仲間と過ごす時間の方が、家族と過ごすより長いですよ。そうして、いいチームに恵まれました。
運命は、私に料理を選ばせた
――ルカさんはどうして料理人になろうと思ったのですか?
もともと食べることが好きだったのもあるのですが、一番初めにレストランで働き始めたのは13歳の時でした。
――え!? そんなに若くですか?
中学校の最後の年だったと思うんですけど、原付バイクが欲しかったんですね。質素な家族だったので、「欲しい」と言ったら父が、「買ってやれない」と。で、買いたいんだったら自分でバイトして買いなさいという事でバイトを始めたのがレストランでした。そして実際にバイクを買ったんですけどね(笑)。その後、14歳から料理学校に5年間通いました。
――学校を卒業してからどうしたんですか?
18歳のとき、ミシュラン二つ星のレストランでインターンとして働いたことが、本格的なレストランで働く初めての機会でした。その時に、将来はこういう“本物のレストラン”で働く、と決めたんです。ですから学校を卒業してすぐにマントバにあるマッシモ・フェラーリがシェフを務めていた【イル・ベル・サリエーレ】という一つ星レストランに入りました。今はもうないんですけどね。まだまだ未熟でしたが、料理のタイプによって全然クオリティが違うということを、身をもって知りました。その【イル・ベル・サリエーレ】では技術のある人たちが、心を込めて真面目に取り組んでいました。そういう姿を見て、「自分もこうなりたい」と思ったのです。
――ではその時から、トラットリアなどのカジュアルなものではなく、ガストロノミ―を目指した?
はい。でも、実はその頃、人生の岐路に立っていたのも事実です。“プロのラグビー選手になる”という道と、そのまま“料理の道を続ける”という二つの選択肢がありました。正直に言うと、その当時は料理よりもラグビーの方に行きたいという気持ちが強かった。でも、運命は私に料理を選ばせました。
――何があったのですか?
バイクで事故にあって6か月入院する羽目になりました。それを機にもうラグビーができなくなってしまったんです。だから料理の道に進みました。でも、私はラグビーも料理もすごく似ていると思います。例えばトレーニング。ラグビーも料理も自分自身を鍛え、学ばなければなりません。厨房にいようが、フィールドにいようが、毎日試合に取り組んでいるようなものなんですよ。だから、お客様を喜ばせるということが勝つという事だと私は思っていて、その為に努力しなきゃいけない。そして、やっぱりチームワークですよね。厨房にいても、ラグビーでも。やっぱり厨房のチームのサポートがなければ、頭の中に自分の明確なビジョンがあっても、それを達成することはできないのです。
――確かにそうですね。ルカさんは、イタリアで数軒修業された後、スペインの【アケラレ】や日本の【龍吟】で3ヶ月修業されていますね。イタリアだけでなく、スペインや日本に行こうと思ったのはなぜですか?
新しい料理技術を学びたいとか、他のシェフがどんなことを考えているのかを知りたかったからです。自分自身がよりよくなるために、成長するためにいろんなことをやってみたいという思いがあったんです。イタリアでは、「スーツケースを増やす」という言い方をするんですけど、自分が身につけられるものは何でもしたいという思いが強かった。スペインはその頃ちょうどガストロノミーのトレンドが来ていたので興味がありました。
――日本の【龍吟】は、どういう経緯で修業をされたのですか?
【龍吟】の山本さんのことは、サンセバスチャンの世界料理学会に行って初めて知りました。日本人シェフの魚の捌き方はすごかった。イタリアの料理人からしても、日本の料理人に対するリスペクトはすごくありました。山本さんは学会でハモを捌いていらして。ハモをレントゲンに通して見せていたんです。
――ハモをレントゲンで!?
そう、どれだけ骨があるのかというのを説明するためだったと思います。ムガリッツで研修をしていたことがあったのですが、山本シェフがたまたまいらして。当時(【ブルガリ
イル・リストランテ】シェフドキュイジーヌの)井上も一緒にいたのですが、彼を通じて山本さんに、日本に行きたいので受け入れてもらえないかとお願いしたんです。当時は日本の場所さえ認識していないような状況でしたが、どうしても行きたいと思いました。
日本という土地に目を向けて、自分は変わった
――そして【龍吟】で働いた後、イタリアに戻って【ラ・ペルゴラ】に入りましたね。なぜそこを選んだのですか?
イタリアに戻る時には、三つ星レストランで、ある程度責任のあるポジションで働きたいと思い、4軒面接しました。けれど三つ星店でそのようなポジションを任せてもらうのは難しかった。当時私は26歳なのに“スーシェフになりたい”と言ってたんです。前向きな返事をくれたのは【ラ・ペルゴラ】のハインツ・ベック唯一人でした。「スーシェフになることについて今すぐイエスとは言わない。だけど1ヶ月働いたら、その後についてその時に答える」と言ってくれたんです。で、1ヶ月働いたのち、改めてスーシェフのポジションを得ました。
――【ラ・ペルゴラ】では、どういったことを学びましたか?
料理における味の重要さ、組み合わせ方ですね。ハインツ・ベックは、そこにすごく明確な考えを持っていました。どんなクリエイティビティがあるものでも、そこにおいしさがないといけない。基本的なことですが、大切なことです。今は30歳以下のシェフでも、エスプーマだったり、スモークを炊いてみたり、いろんな技術を持ってます。けれど、そればかりに走る人は味に対する力の入れ方が足りないんじゃないかなと思います。先日、私がメンターをつとめた『サンペレグリノ
ヤングシェフ2018』で【ラ・シーム】の藤尾康浩さんが勝てたのも、誰よりもおいしい料理を作った。とどのつまりそこだと思います。最初の一口で皆がそれを感じたということです。
ハインツ・ベックがいつも私に言っていたのは、「お前はシェフのために作っているのか。お客様のために作っているのか」ということ。シェフのために作ろうとすれば、こんなこともできる、あんなこともできると知識や技術をひけらかしたくなる。でも、お客様にはまず“おいしい”というところを抑えないといけないわけです。「レストランを誰で満席にしたいんだ?」と。もう答えは分かっていますよね。
――【ラ・ペルゴラ】の後、いよいよ【ブルガリ イル・リストランテ】のシェフになられましたね。
ちょうど3年働いた頃だったと思います。自分の責任でレストランを運営するというシェフのポジションの話がきました。ちょうどステップアップしたいと考えていた時期でしたので決めました。日本に行く不安がなかったと言えば嘘ですが、30歳前でしたし、ダメなら1.2年で帰国すればいいやと行くことを決意したのです。以来8年いますが、本当に自分自身が成長できた8年だと思います。
――【ブルガリ イル・リストランテ】では、当初からこんな料理にしよう、という明確なイメージはあったのでしょうか?
最初の頃は、イタリアから自分が今まで使っていた食材を輸入していました。けれどその食材で料理をつくった時に、何かが足りないというのは感じていたんです。どうすればいいか考え始め、日本のいろんなレストランを食べ歩きました。すると、日本にはレベルが高くて、おいしい食材があるということが分かったんです。それで方向性を変えようと思いました。日本という土地にもっと注目しようと思ったんですね。例えば、いい評判を聞けば宮崎の小さな町まで出向いたりして、その土地でどういう食材が育てられて、どういうところで漁をしているのか、足を運ぶようになりました。そうすることで視野が広がり、自分が知らなかった季節ごとの食材に出会うことができました。
来日してから“国産食材を積極的に使う”という考えに至るまでに2年くらいかかったと思います。自分のつくりたい料理はここからつくるんだ、という思いに至ってから自分がすごく成長し始めたなと感じています。
料理に対する思考は終わりがない。永遠に。
――日本の食材を使っていますが、料理はイタリアの伝統料理がベースになっていると感じました。
私はコンテンポラリーなイタリア料理をやっていますが、味という意味においてはそうです。それがあることで、自分の方向性が見えていると思います。日本の方にとっての一般的なイタリア料理は、トラットリアやピッツェリアの料理。私のコンテンポラリーな料理とは違うと思います。けれど、やはりそこにイタリアのエッセンスは確実にあります。
――イタリア料理をコンテンポラリーに落とし込むうえで、決めているルールはありますか?
決まったルールは無いですが、基本的にイタリア料理に使われる食材しか使いません。日本の食材を使いますが、お醬油やみりんを使うことはしません。イタリア料理に本来ないものは使わない。例えばリゾットのお米はイタリア産のものを使います。日本産のカルナローリ米があれば日本のものを使いますが、ないですから。パスタも自分がいいと思うものは残念ながら日本にはないのでイタリア産のものを使っています。
――新しい料理のアイディアなどはどう考えられるのですか?
今ですね、厨房の中に“クリエイティブチーム”があるんですよ。チームといっても2人なんですが(笑)。2人で過去にやった料理を見直して、どうすればより良くできるかや、新しい事を何かできないか考えています。例えばこの『キンキの塩釜焼き』。箱ごと岩塩に包んで焼くというアイディアはここで生まれました。この“考える”作業は終わりがない。とても時間がかかります。永遠に時間をかけても終わらないです。
――箱ごと岩塩で包んで焼く!? 面白い発想ですね。
塩釜で魚を焼くっていうのは、夏のイタリアのレストランでは典型的な調理法なんです。通常はスズキにしても、塩釜でカバーしたまま出てきます。『キンキの塩釜焼き』はそのイタリアの焼き方をイメージして、桜の木で作った箱の中に、香りづけの松の枝を入れて蓋をして覆い、焼きました。イタリアでは塩釜焼きに添え物をつけるので、それをイメージしたのが『アーティチョークのバリエーション』。アーティチョークは日本の国産で、ピューレにしたり、ピクルスにしたり、それからチップスも。レモンジュースでちょっと火入れしたピクルスもあります。
――そういうアイディアは日ごろから浮かんでくるのですか?
そうですね、ずーっと。旅をしている中でも。いや、旅をする時は凄く、ですね。飛行機の中にいる時はとてもリラックスできる時間なんです。電話がかかってくることもないし、呼び止められて話しかけられることもありません。だからそこで考えてメモをし、帰ってきてからそれをもとに動く、ということをします。昔は寝ている時に夢の中で思いついたりしたんですけど、今はないですね。常に頭の中がいっぱいなのかもしれませんね(笑)。
撮影/佐藤 顕子 取材・文/山路 美佐(2018.5.24取材)